昭和45年2月18日 月次祭
中村良一
天地の親神様の願いでありますところの、人間氏子の助かりという事。神様が願うて下さる助かりという事は、どういう様な事かと。本気で、そこを追求して行くことが信心だと思います。本当に、神様が、願うておってくださる。どうぞ、氏子信心して、おかげを受けてくれよと、願うておってくださる。
今朝の御理解の中にも、御理解百節のね、めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないかと、ね。生神金光大神は、家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと。ね。沢山の、御道の信心信奉者が、この百十年間の間には、どのくらい、おかげを受けて助かってまいりましたか分かりませんけれども。それが、助かっては消え、助かっては消え。そして、現在の金光教があるわけでございます。あれが、本当に助かっておったら、今頃はもう、それこそ、私は、世界の金光教と言われるようになっていったに違いがないのですけれども。本当の助かりという事は、その様に難しい訳ですね。ですからその、本当の一つ、助かりを願わせて貰うての信心。いわゆる、めでためでたと、または、枝も栄える葉も茂ると。親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と繁盛していくおかげの受けられる信心を、一つ目指さなければいけんという事になります。ね。
ところが、なかなか、そこへ、そういう姿勢を取らん、ね。とにかく、いわゆる、ただ、その時その時、目先目先のことが、おかげを受ければ、まぁ、それで、新たかな神様だとか、または、お参りしたけれど、おかげを受けられなかったというような事で終わってしまうようにですね。
これは、まぁ、お釈迦様の、いわゆる、御教話、いわゆる、お説教、お説教と言うかね、お経文の中にあるお話。ね。いわゆるあの、ごにょごにょ、坊さん方が、お唱えになっとられますけれど。あれは、私が、朝晩、こうやって皆さんにお話を聞いていただいておる、いわゆる、本当な事。いわゆる、真理と申しますよね。人間が、本当に助かっていくことのためのお話が、あぁいうふうに、節をつけて読みますと、お経文になるのですよ。ね。そういう、まぁ、お経文の中にあるお話です。
お釈迦様がお亡くなりになります時にね。もう、人間だけではない、ありとあらゆる、もう、動物が、お釈迦様の亡くなられるという事を聞きつけて、皆が、枕元に集まったという事です。その中に、ツバメと雀のお話がございます。雀はもう、それこそそれを、まぁ言うなら、お釈迦様危篤という報に接すると同時に、駆けつけたわけですね。ところがその、ツバメは、こしらえて行きよった。金をつけたりしていった。口に口紅どんつけて、金をつけたり、こしらえたり、綺麗にして行きよったところがその、まぁ、お釈迦様が亡くなられるのに間に合わなかった。そこで、雀には、今後、米を食べても良いと許された。ツバメは、その罰で、もう、穀物は食べさせん。もう、お前には、虫だけしか与えんという様になったというお話なんです。そういうお話が、お経文の中にある。ね。いわゆる、御理解なんですね。そこで、皆さん、皆さんの場合は、どういう事になるだろうか。雀のほうだろうか、ツバメのほうだろうか。私はね、金光様のご信心を頂くほどしの人ならば、いや、合楽にご神縁を頂くほどしの人ならば、それぞれの悩み、それぞれの、深刻な難儀の問題が、きっかけで合楽にご縁を頂いたという人が殆んどであろうと思います。しかも、合楽では、ね。もう、どこの教会でも助からなかった。何々様でも助かることが出来なかったというほどしに、言うならば、難症の方。本当に、難儀な中の難儀な人達が集まっておるんだと。そして、その人達が助けられていっておるんだという事を感じます。ね。
今朝の御理解の中に、んー、大橋、何じゃったか、俳優の、おりましょうが。あの橋蔵さんですね。大川橋蔵さん、ね。大川橋蔵さんを御神願に頂いた。今、あそこの、久富先生ところの息子さんの弘道君が、ここで、只今、修行中でございます。今年、学院に入る事になっております。ね。本当に、私は有難いなぁと思うですね。お父さんが、二十年間、いわば、本気で修行なさった。修行もせんのに、ね。もう、早速、本部の、いわば、学院行きが許されようとしておる。いわば、ここに、お取次ぎの、いわば先生がです。誕生しようとしておる。親のとった徳ですよね。親が、一生懸命、二十年間も、一生懸命修行させていただいて、お父さんよりも、一足先にです、教師の資格を貰おうとする、いわば、準備が出来ておる。有難い。ね。それですから、せっかく、御道の教師にお取立ていただくのでございますから、本年、ここから、三名の修行生の方達が、御本部へ参りますが、ね。そのことを、私その、お願いさせて頂いておりましたら、橋蔵さんの御神願を頂いた。ね。大川橋蔵。大きな川が流れておるということでしょう。ね。その川の向こう岸、いわゆる、おかげの彼岸とでも申しましょうかね。そこには、神様の世界がある。人間の、本当の幸せ、極楽の世界がある。こちらから見ておるだけである。信心させていただいて、こういう事になっていきゃ、おかげになると分からせて頂いておっても、なかなか、そこへ渡る事が出来ない。それは。泳いでいくことも出来なければ、渡って行くことも出来ない。どうでも、大きな、ここに橋が必要である。それをお取次ぎと言うんだ。お取次ぎをさせて頂くからにはです。そういうです。人間が、本当のおかげの彼岸に到達できるほどしの、お取次ぎの出来る先生になることを願いとしなければならないという事である。ね。
それにはです、真が無からなければ、人が助からんと、教祖は、九十九節に教えておられます。真がなからなければ人が助からないという事は、ね。真が無からなければ、ね。私自身も助からないという事なのです。そうでしょうが。真がなからなければ人は助からんぞと教えておられます。為には、先ず、私自身が助かるために、私自身が、真とは何ぞや、真とは、真とはと、真を追求するところの、信心が必要だという事になるのです。ね。その真が、私が助かるという事になると同時に、人が助かるという事になる。私は、これは、金光教の教会だけではない。まぁ、宗教の全てが、ね。まぁ、気休めにお参りしておる。ね。もう大した、大変な、例えば、まぁ、死ぬか生きるかといったような問題では、もう、人に頼んで、ちょっと、どうでも良い、言うなら、大川ではない。もう、またぐれば、ちょっと、またいで行けれるほどしの、いわば、問題の所をですね。いわば、お取次ぎと思うて、お取次ぎをしておる教会といったようなのが、沢山あろうと思うです。ね。大変な難儀な問題は、教会へ持っていっちゃ駄目。もう、ちょいとした事ならお願いに行く。もう、いよいよ、死ぬか生きるかと、大変な問題は、お医者さんに持って行かにゃ出来んのであり、お金に頼らなければいけない。また、お願いしても助からないと、といったような実情ではないかと、こう思います。ね。
ですから、私どもは、その、いうなら、ね。人間の力で行けれるところには、もう、行っても良いじゃないか。自分の力では、どうにも出来ないと、言うところをです。助けて貰えれる神様が必要であり、そういう難儀を、取り次ぎ助けてくださる先生が必要なのだ。それには、その先生自身がです、ね。真がなからなければ人が助からんと仰せられる前に、私自身が、真を追求して、真、真とはと言う、真の人にならせて貰うことの精進をさせて貰うて、自分自身が、その真によって、助かって、それから、助かった自分の喜びが、お取次ぎという事になる時にです。いわゆる、おかげの彼岸。ね。その川を渡って、ここが神様の世界であろうか、ここが極楽であろうかと言う様なおかげに到達する事が出来るのである。ね。だから、お取次ぎをさせて頂く者も、そうですけれども、ほんなら、お取次ぎを願う、おかげを頂きたいと願う者も、やはり、真を追求しなければならんという事が分かります。ね。
今、申しますように、合楽ではですね、もう本当に、私は、今朝から、その様なお知らせを頂いてから、本当に、真がなからなければ人が助からんと。人間の知恵やら力では、どうにも出来ない。そこをお取次ぎを頂いて、お取次ぎのおかげによって、このように助かったと言うような、おかげを受けなければならないと、まぁ、思わせていただいとりましたら、今日は、次々と、そういう大変な問題がですね。お取次ぎを願われることになりました。また、それをお取次ぎさせて頂くことになりました。ね。
ある方は、これは、ある自分のお得意さんに、三百万からの貸付がある。ところが、その店がもう、いよいよ、潰れようとしておる。ね。だから、例えば、これはもう、間接的にはですけれども、あなたが、例えば、その今日、お願いに見えた、その方がです。もう、取り上げてしまおうという事になったら、その家はもう、完全に潰れてしまう訳なんです。ね。ところがね、お取次ぎを頂かれたらね。そこを、もう一遍、助けてやれという事であった。そら、向こうは知りませんよ。けれどもその、お商売なさってる、その人自身が、ここで、日々、おかげを頂いておりますから、もう一遍、助けてやれと、あちらを。いわば、これは、間接的ですけども、その店が助かられる事になるでしょう。ね。その人が、もうこれで、あの、取れるだけ取るという事の姿勢をとるか、それとも、これはほんなら、今までのは、据え置きにして、まぁ、もう一遍、助けてやろうと言う気になられるという事がです。こちらが、いわゆる、間接的な、私は、それは知りはしませんけれども、その人が助かるという事になる。それはまぁ、ほんなら、私がです。出来るだけ、まぁ、五十万でん、百万でん、取るだけが、やっぱ、儲けじゃけん取りなさらにゃいかんじゃろうと言うとったら、ね。そこには、本当の助かりは無いことになっとった。
ある方は、これはまぁ、言葉にも出せないほどしの事ですけれども。まぁ、大変なおかげをいただいてね、帰りました方がありました。これは、やはり人間関係です。これはまぁ、大変な大きな問題で、ね。その事で、私は、お取次ぎをさせて頂いたんですけれどもね。それから、ちょうど、お昼、ちょっと過ぎでしたでしょうか。これももう、大変な問題でした。もう、それこそ、ご自分は、つい最近、大臣賞まで受けられたんですよ、その方は。もう、どっから見ても、人格者であり、また、沢山な、教育者ですから、教え子達からは、もう本当に、自分では、慕われておるとこう言われるのです。ね。ところが、肝心要の、自分の息子、息子の嫁からは、背かれ通しに背かれておるとこう言うのである。その嫁から、優しい事の一言も聞きたい。例えば、一例を言うとですね。その嫁さんが、大変さば寿司が好きだ。美味しいさば寿司を、他所から貰うたから、嫁が喜ぶようにと思うて、喜ぶ顔を見たいと思おうて、そのまぁ、持って行ってやった。四つに切ってあった。ね。だから、そこの女中さんに、嫁が頂いたでしょうかち。はい、あの嫁さんと、息子さんと、ご主人と、誰々さんと、一切れづつお頂になりましたよち言うて。はぁ、良かったと思うてその、(?)それから翌日、まぁ、お母さん、昨日のおすしは、大変美味しかったというのを聞きたいと思うて、行って、けれども、なんとも、そのお礼を言わっしゃらん。ね。ですから、こちらが、昨日のお寿司は美味しかったて言うたら、さぁ、どうでしょうか、私はいただきませんでしたからち言わしゃったげな。あっはは、もう本当にもう、いそいそとして、行ったけれども、帰りはもう、それこそ、重い足取りで、家に帰らなければならなかった。もう、一事が万事に、その様な状態でですね。もう本当に、もう私は、その方の話に、一時間ぐらいに渡って、聞かせていただきましたが、自分も、涙ながらに話されるなら、私も、なんと難儀な事であろうかと、ね。
社会からは、そういう風に認められる人。言うならば、大臣賞までも、つい最近、受けられたような方。その方がです。もう、いよいよ、この世を、はかなんでしまった。そして、私が、聞くだけ聞かせていただきましたから、また、今度は、私の話を聞かせてください、あの、聞いてくださいと言うて、私の話をまた、一時間余りも話させて貰いました。ね。そしたらです。涙を流して言われることです。先生、おかげで助かりました。実は、夕べ、私は、自殺をするつもりじゃったと言わっしゃった。ね。けれども、もう一遍ですね。合楽の先生に、お目にかかれて、そして、死ぬなら死のうと決めてまいりましたら、先生がお休みと頂いたときには、もうこれでお仕舞いかと思うた。自分が行ききらんから、自分は、敷居が高くて行ききらんから、女中さんを先にやったところが、先生は、休んである。私は、ちょうど今日は、髭を当たっていただいとって、そのまま眠っとった。その時に来てある訳です。ね。ですから、もうこれで、命の綱が切れたと思うた。ね。それで、もう一遍、あの、お休みになったその、まぁ、何時ごろに起きられるだろうか、何かという風に言われたんでしょう。末永さんが、すぐ、私の所に言うて参りましたから、ほんなら、あの、コタツの間に通しておきなさいと言うて、コタツの間でお会いさせて貰った。大変、おかげを頂かれまして、ね。おかげで、いわば、新しい私が、今日から、今日を境に誕生させてもらうと、ね。そして、今までの、過去の一切をです、ね。無いものに思うて、新たな、いうならば信心生活、私が申しましたんです。今日を境にね、あなたが死のうと思われたならば、今日を境に一つ、尼さんになったつもりでです、ね。自分の言うこと、自分の主張と言うものを、もう、捨ててしまって、ね。神様任せの生活に入りなさい。あなたのお話を頂いておると、本当は、あなたはやっぱり、死んだが、一番ましじゃろうごと見えますし、聞こえますけれども、ね。けれども、それではね。魂が、永遠に助からない。ですから、どうでも、おかげを頂いてです、今までの、言うなら、あぁもしたかった、こうもして貰いたかったという思いを捨てて、いわゆる、我情を捨てて、真を追求してお出でなさい。そして、真の道を歩きなさい。これから、何年お生きになるか分からんけれども、その、これからの何年間かをです。そういう姿勢をとられたならば、必ず、私は、あなたのそこに助かりがあると思う。自分が、どうしてやって、こうしてやって、沢山な方が助かったというけれども、それはね。先生、おかげで助かりましたち、あなたに言いよりなさるかも知れんけれども、ね。けれども、それは、決して、本当の助かりになっとるとじゃないですよ。何故って、あなた自身が助かっておられん人が、助けられるはずは無いじゃないですかち。もう、本当に、その涙を流して、はぁ本当に、そうどころじゃない。みんなが、私のおかげで助かった、助かった。盆と正月には、言うならば、お礼に出てくる人達が沢山ある。けれども、おかげで助かったとは言うてはおるけれどもです。それは、本当に助かっておるのじゃなかった。肝心要の、自分の息子、息子の嫁すらが、助かられていないじゃないかと、ね。あなた自身が、助からなければいけません。あなた自身が助かられて、そしてそこから、あなたのおかげで助かったという人が出来てくるなら、それは本当なものだ。まぁ人じゃない、息子じゃない、嫁じゃない、いわば、あなたの周囲に集まってくる、沢山の人達じゃない。もう、それとは一つ、縁を切るくらいな思いでです。先ず、私自身が助かることの為に精進をしてください、と言うて、私はあの、和賀心時代を話したんです。なかなか、そういう風な教育者の方ですし、(頭、おてようとしよるですけれども?)なかなか、頭の冴えた方なんですから、ね。私の言うことが分かられる。ね。そういう様にですね、私は、本当にその、人が助かるという事は、ね。私自身が助かっておらなければ、助かるという事は出来ん。
ほんなら、私が助かるという事は、私が、いわば、真、ね。真を追求していく以外には無い。その、ほんなら、真とは、九十九節にありますように、ね。九十九節、ね。いわゆる、真とは、本当の事という事なのです。真とは、本当な事。ですから、その本当の事が分かる。今日、私は、その話を、中に、例えば、苦に苦が重なるほどしの難儀、ね。苦に苦が重なるほどしの難儀なこと。その中にあってもです。本当な事が分かると、それは神愛であり、それはおかげであると分からせてもらう。ね。苦しいと思うておったけれど、なるほど、苦しいけれども、有難いというものが、ここの腹の底から湧いてくる。それが真なんです。本当な事が分かるから、ね。苦しいけれども有難い。ね。そこんところを、教祖は、信心する者は、肉眼をおいて心眼を開けと、心眼を開かなければ分からない。そこで、心眼を開かせていただくための精進と。ね。
そこで、例えば、立教神伝の、冒頭の所を、もじって頂いた御理解が、この頃ございましたですね。この幣切り境に肥灰さしとめるからと。ね。この幣切り境にという事は、この難儀を境に、肥灰さしとめるからと言うのは、お前の心の中にある、汚いものと、別れなければいけないぞという事。この幣切り境に、この難儀を境に改まりますという事。心の汚いものを取り除いて行こうとすること。ね。私共は、そういう難儀と思うておった、その難儀を境にです、ね。私共が改まっていくことによって、結果が、どういう事になってくるかというとですね。いわゆる、おかげなんです。そしてから、後で分かることは、はぁ、あの難儀のおかげで、改まることが出来た。あの難儀なことで、自分自身を、もう一段深めることが出来たという事になってくるから。その難儀が、おかげという事になってくる。ね。ですから、例えば、今、ここに難儀を感じておるなら、この難儀こそがおかげだと。これが御神意だと、これが御神愛だと分からせてもらうから、形の上においては、例えば、病気なら病気に見えておるけれども、その底にはです。神様の、言うなら、どうぞ信心して、おかげを受けてくれよと、助かってくれよと仰る助かりが、その下にあるんだ。ね。ですから、御礼が言えれる訳です。しかも、それがまた、苦に苦が重なる様な事であっても有難い。ね。と言うて、その、上野愛子さんところの、今度、お父さんが亡くなられたお話をしたんです。ね。
学院に行って、間もなく、お母さんが亡くなられた。それからまた、間もなく、弟さんが亡くなられた。そして、まだ一年もたたない、それこそ、涙も乾かないうちに、お父さんが亡くなられた。ちょうど、昨日がお葬式でしたが、その前日ですね。弟嫁でありますが、恵子さんから手紙が来た、愛子さんに。今度のお父さんの病気は、普通とは思われません。どうぞ、お祈り添えをお願いいたしますと言うて、手紙が参りましたから、それを、あくる朝の御祈念の後に、ちょうど、五時十分でございました。金光様のお取次ぎを頂いて、父親のことをお願いされたところが、金光様が、何時もは、あの、ふっとこう、お願いをしても、御神米を一体こう下げてくださるだけなのに、その日は、何体もの御神米を、こう包装して下さいましてね。そして、大変おかげを頂きましたと仰ったそうです。ね。その意が、大変おかげを頂きました。おかげで助かるのじゃないだろうかと思うて、学院に帰らせて頂いたのと、家から、亡くなったという電報が来たのが一緒だった。ね。はぁ、金光様がね。大変おかげを頂きましたという事は、これは、おかげだと分かった。ね。そこで、金光様に、直ぐ、御礼のお届けをさせてもらい。こちらにも、昨日、電話がかかってまいりまして、御礼のお届けがございました。このたびは帰りません。もう、後、わずかばかりのあれでございますから、ね。ただ、御霊の助かりを願わせて頂くばかり。それで、私は、その朝、私が頂いておりました、皆さんが、朝の御祈念のときに頂かれました、ね。「露草の、露にも似たりみかげかな」と言う、そのことを言うてやりました。露草の露とは、露と言うのは、お恵みの、恵みの露と言うでしょう。だから、その露草という事もおかげなら、その上に、また露がかかっておると言うてある。お恵みの上の、またお恵みである。御霊様の助かることも、言うにさらなり。ね。上野愛子さんのためにも、大変なおかげ。神様の大変なご期待を、ここに感じん訳にはいけない。そういうものが、心の中にたぎってきたです。愛子さんの心の中に。同時にです、ね。家の中から、一人坊さんが出たら、どれだけの人が、親戚中が助かると言われるぐらいですから。いわゆる、お取次ぎ助けさせていただく、難儀な氏子の取り次ぎ助ける御用に、いわば、御道の先生にでもならせていただこうと言うておるのですから。ね。その事の、余徳によって、御霊様が助かられない筈もない。御霊の助かりもあろう、愛子さん自信の助かりもあろう。ね。なるほど、露草の、露にも似たおかげであり、お恵みの上にも、またお恵みのおかげである。これは、心眼を持って除いたところの世界なのであります。人間の、これを目で見る、肉眼の目で見ますとです。どうしたことじゃろうか。御本部に登ってござる、修行しに行ってござる間に、ご両親が亡くなられたり、兄妹が亡くなられたり、まぁ、なんと、神様も、ござるとはござるじゃろうかと、これが、肉眼で見る世界。ね。けれども、本当なこと、ね。いわゆる、本当な事は、どういう事かというとです、ね。ここに、上野愛子という取次ぎ者の上に、ね。大変な、神様の願いがかけられる、期待がかけられておるからこそ、そこにですね、いわば、そこに纏めてくださる神様の演出のほどという事は、これはもう、ここで、信心を少し、なさったほどしの人なら、みんな、それが分かるだろうと思うです。素晴らしいことだなぁ、素晴らしいことだなぁと、皆が言ってるんです。ね。昨日も、その電話を、あの、伝わって、私の耳に、心に響いてくることなんです。
私がね、私も、その朝ね、露草の露にも似たりみかげかなという事を頂いたが、ね。おかげの上のおかげだと、ね。先生、実は、私も、そう感じておりますと言うのです。感動して、お話しが出来ないくらいに感動しておった。ね。と、私は、その話をさせていただきましたら、その小母さんがです。はぁ、もう、そんなことが出来るでしょうかち言うて。そら、信心の無い者が聞いたら、思うでしょうね。両親が、兄妹三人を、一年の間に亡くするといった様な事はです。それが、おかげのおかげといった様な事が分からないならば、そういう御礼を申し上げてくださいなんて言う、喜びの心なんて起って来るはずがない。ね。けれどもです。いわゆる、本当な事が、段々、分かりかかってきた。いうなら、真の人に、段々、なってきた。真のことが分かってきた。取次ぎ者としての、いわば、教養と言うか、信心が身に付いてきた。本当のことが分かりだしたら、それがおかげと分からせていただいた。なるほど、肉親を亡くする、ね。哀別離苦の苦しみと言うのは、誰だってあるけれども、その苦しみの底に、もう一つ、ね。その信心の喜びと言うか。これは大変なことだぞと、大変な神様のご期待だと。このご期待に添い奉らなければ相すまんというのが、今度のお葬式には帰りませんという事にまでなってきたんです。ね。
ですから、今日、私は、その話をさせて頂いたら、そういう事が、先生、出来、さぁ、出来る出来んは、これから私に任せなさい。それが出来なければですね、あなたが助からんのですから、ね。だから、様々な問題、次々と取り越し苦労をして、色々と問題のお届けがありましたが、そういう事は置いて、その時、その時の問題を、お取次ぎを頂いて、お願いをしておいでられたら、ね。あんた自身が楽になります、助かります。そこから、嫁さんも助かってくる、息子も助かってくる道が開けてくるのだと。沢山のお金を、その人は持っておられますからね。養老院に沢山のお金をかければ、養老院に行けるんです。それも考えられたんです。ね。息子のほうへ行くと言う事も考えられたんです。ね。ところが、どちらに行っても、苦しいという事が分かったんです。そういう、例えばですね、例えば、お母さんが行かれてもですね。上がりなさいという事を、言わっしゃらん。ね。そして、帰りがけになって、お母さん、お上がりなさいて言われる。そういう中に、自分が入っていって、これからの余生を送らんならんと思うたらです。死んだほうがましと思う。けれども、孫は可愛い、ね。そこに、人間のジレンマがある。そこでほんなら、お金は、沢山持ってあるとであるから、そのお金で、養老院に行こうと思うたけれどもです。なるほど、金に明かせれば、ね。形の上においては、大事にされようけれども、私の心の助かり場がない。孫にも会えないです。ね。どちらに行っても、自分はもう、ここに行き詰った。これは、自分がここに、死を覚悟するより他にないという結論が出たわけなんです。ね。そういう中からです、そういう中から、今日は、まぁ、少し、ほのぼのとしてです、ね。助かられるという、その光明が差してきたような感じであった。ね。
今日を境に、本当に一つ、だから、私は申しましたんですけれどもね。とにかく、お話を頂いてくださいと。お参りをしてきてください。そして、今までの、いわば、我情我欲、自分の思いを捨てきれ、捨てて、いわゆる、尼さんになたつもりで、御道の行者、御道の、いわゆる、信奉者としての値打ちを作る信心を頂いてくださいと言うて、まぁ、話をしたことなんです。ね。なるほど、自分は、何十年間という間、社会に貢献してきたと言われる。けれどもそれが、何にも報いられなかったじゃないですかと。してみると、それは、本当の貢献ではなかった。言うならば、神様が喜んでくださる事ではなかったんだと。ね。
今日、お祭り前のお話を、嘉朗さんが致しておりました。大変、まぁ、深い意味のお話をしておりましたですねぇ。若先生が、今度、御本部参拝されてから分かったこと。それは、如何に、若先生の信心が、私の信心の内部にあったかという事なんです。もう、言うなら、若先生と、離れられない自分になっておるということを感じたんです。私は、有難いと思うたね。私の信心が、若先生に伝わり、その若先生の信心をです。もうそこにです、若先生無しには、自分の信心は、これから、ぐらつくかも分からんと言うぐらいな、大変なものを感じたという意味の事を申しておりましたですね。いわゆる、私の信心がですね、伝わって行きよる。
まぁ、それによく似た事ですけれども、ちょうど、四時の御祈念の前に、福岡から、池田さんが、新しい信者を、二人導いて参ってきた。伊万里の方である。それが今度、九大に試験を受けられます。ね。それでその、試験のお参り。ところがその、福岡の、あの西鉄の駅に来たら、ほんなもう、一分の差でですね。急行が、あの特急です、特急が行ってしもうた。そん時に、はぁ、こら運気がないじゃろうかと思うて、まぁ、心中祈念をしながら、一生懸命、久留米までこらせて頂いて、久留米からこちらへ向わせていただくバスの中で、善導寺から、光昭先生がて、あの、光昭のことですよ。光昭が乗ってきた。何時も、善導寺にお参りをさせて頂くんですけれども、今日は、おできが出来て、自転車に乗られんと言うので、今日は、初めてバスでお参りしたんです。その自動車の中に、光昭先生が乗って見えた。まぁ、光昭先生、実は、今日はね、この方をお導きして、今度、九大に受けられる試験のことで、お参りさせていただきよるとですよち言うたら、光昭が、どういう事を言うたか、あぁ、そんなら、大丈夫ですばいち言うた。私が乗ったから大丈夫だち。ね。それはその、大丈夫だと言えれるほどしの、いわば、熱烈なものを、今、あの人の心の中にたぎってる訳ですよ。沢山な、ここで、受験のお届け、お願いがあっておる。そのことの為に、今、それこそ、夜中に、山の滝の水を頂に行って、その事を祈願してる。まぁ、そういう修行でもさせていただいておる時だから、それが言えたんですねぇ。まぁ、私の、若い時のような感じが致しました。
そんなら、池田さん、受かられるですよと。まぁ、それを聞かせていただいて、なるほど、特急に乗り遅れたはずだ。このバスでなからなきゃならなかった筈だと思うて、心強い思いでお参りさせて頂いたと言ってます。ね。私の信心が、ある、かたい意味合いにおいての信心が光昭に伝わって行きよる。ある信心が、または、若先生に伝わって行きよる。それをです、受けて助かる。はぁ、おかげ頂いたという人が、そこに、一人でも二人でも出来て行きよる。若先生がおらなかったら、私の信心が、可笑しくなるのじゃないかとさえ思われるくらいにです。自分の信心の内容に、若先生の信心が入ってきておるという事を、若先生の、今度の御本部参拝の、何日間の留守の間に、それを感じたと言うのです。ね。最後に申しておりました。素晴らしい。それを、私は、今日、思うたんです、ね。和賀心、和賀心と、なるほど和らぎ喜ぶ心という事なんだけれど。その和らぎ喜ぶ心という事はです、ね。本当言うたら、天地に通うもの、天地に交流するもの。いうならば、天地と和した心が、和賀心の最高のものだと。ね。和賀心と言うのは、その様な素晴らしい事だという風に、ここで頂いておりますでしょう。ね。それに、もう一つ、今日は、嘉朗さんの発表を聞かせて頂いておりますとです。ね。若先生が喜んでくださる。親先生が喜んでくださる。神様に喜んで頂けれる信心を頂こうと思うて精進することは、そのまま、和賀心に繋がることではないでしょうかと言うて結んでありました。私は、これは、本当に素晴らしいと思うたですね。
若先生が喜んでくださること、親先生が喜んでくださること。そのまま、神様が、喜んでくださる信心の精進がです。ね。そのまま、和賀心に繋がるのではないだろうか。もう、まさしく、そうなんです。神様が喜んで頂けれる信心の体制をとるなら、神様が喜んでくださらんはずがない。その喜びが、私共の心の上に、感動となって表れてくる。その心が和賀心なんだ。ね。和賀心に、もう一つ、そういう意味においての和賀心がある事をです、。これは、信者の立場として、そういうものを、嘉朗さんは、感じ取っておられるのです。ね。
先ほど、久保山の奥さんが、今日は、善導寺の町中を、その、なんかマイクで、えらい、おらんで歩きよった。ね。平和の和ですね。和の運動に協力してくださいと言うて、その、判を貰いに歩かれたという人があったち言うんです。親先生が、仰っておられるように、もう、和賀心時代に突入した。絶対、そういう運動が起こる。もう、地球上の人類の全てが、ね。和賀心を学ばなければならない時代が、必ず来ると言うておられたが。もう、早速、和賀心ではないけれども、和の心運動と言うのが、今日は、私の方にも、善導寺の町を歩かれたとこう言うております、ね。ですから、そういう、例えば、私共が心を、和賀心、ね。それにはです。今日の、一番初めに申しましたようにです。ね。言うならば、ツバメはね、虫しか与えられなかった。それは、罰かぶったと言う訳なんだけれども、そういう意味で、罰かぶったという難儀をもっておる人が、しかも、もう他所では助からない。他所の何々様では、助けてもらうことの出来ないほどしの、大きな難儀と言うものを、いわば、死ぬか生きるかと言うほどの難儀を、ここへ持ち込んでくるほどにです。ここでは、いうならば、罰かぶった人達の集まり場と思うんです。ね。という事は、どういう事かと言うと、信心とは、高めるという事は、自分と言うものが、いよいよ、深められるという事。自分の様なご無礼お粗末の者があろうかと。自分の様な、ご無礼者がと言うところからです。ね。信心が高められることだと言われておりますようにです。自分自身の、いわば、罪の意識と言うと、ちょっと、金光教的じゃないですけれども、自分のような屑の子が、またとあろうかと、自分自身が分からせて頂くところから、ね。有難い、勿体ないという心が湧いて来るんだと。自分と言うものがです、分からば分かるほど、そうなんだ。ね。そこでです、いわば、それを御道ではめぐりと言う。めぐりの深い自覚、めぐりの自覚。合楽では、そういう意味合いで、めぐりの深い人が集まってくる場なのだという事。そこでその、めぐりの深い私である、私一家であるという自覚に立ってです。ね。自覚に立って、私は、今日、その、自殺しようという、その方のお取次ぎをさせていただいて、めぐりとは恐ろしかと思う。その人の家の中にはですね。自殺で亡くなった人が何人もある事ですよ。ね。めぐりですね。
そういう、恐ろしい、例えば、そのめぐりの自覚に立たせて頂くという事がです。私は、ツバメのようなおかげを受けられることではなかろうか。ね。なるほど、虫だけしか与えられていない様ですけれども、そのおかげで、ね。保護鳥として、それを人間が、ね。守らせてもらうというほどしのおかげになってくるでしょうが。私共が、めぐりの自覚に立たせて頂いて、言うなら、この幣切り境に、この難儀を境に、ね。肥灰さしとめる、汚いものとお別れするというような、信心の行き方あり方にならせていただくところからです。ね。神様から、保護を受ける人間。神様から、もう直接、お守りを受けれる信心。神様と、何時も、交流することの出来れる信心。いわゆる、和賀心とは、そういうところから生れて来るんだと。私は分からせて頂いて、ね。言うなら、めぐりに自覚に立っての信心がなされる時です。今日、私が申しますような、本当の助かり、神様が願うて下さるのも、本当に、氏子信心して、おかげを受けてくれよであって。いわゆる、めでためでたの、または、家繁盛、子孫繁盛、または、枝も栄える、葉も茂るというようなおかげ。親の代よりも子の代、ね。そういう、私は、おかげの頂けれる、おかげを頂くために、いよいよ、本気で、真と言うものを追求しなければならない。真と言うのは、本当な事。その本当な事が分からせて頂くところから、今まで、難儀と思うておった、その難儀な事がです。難儀ではない、おかげであると分かる。しかもそれが、苦に苦を重ねる様な事があっても、それは、露草の、ね。露にも似たるおかげという事に、分からせて貰う時に、そういう人生の、最大の悲しみに直面しておっても、親先生、御礼を申し上げてくださいという事になってくる。それが、真なんだ。それが真の信心なんだ。ね。そこんところを一つ、お互いが目指していかねばならんと思うのでございます。どうぞ。